昭和四十五年三月三十日 朝の御理解

御理解第75節 
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」



 心で殺す、心で傷付ける。んー、やはり心が、えー、やはり表にも現れ、えー、態度にも出てくるわけですからね。確かに、えー、心で、えー、殺す。または傷付ける。よく申しますもんね。心でこなされる位ひどい事はないっていった様に申します。心でこなされる、ね。それは心で殺しておる事ですよね。相手の心を真っ暗にしてしまう。んー、形の上で、の事は例えば、あー、お上があってお仕置きにあう。心で殺すのが重い罪じゃと。神が見ておるとこう仰いますね。
 今日私はこの七十五節から思うのですけれどもね、何でも同じ事。やはり表があれば裏があるものです。ね。ですからこの御理解を頂いてまぁこれを表とするならこの裏があるはずです。ね。だからその裏をどういう事になるかと言うと人を殺すというがと言うておられますようにね、人を生かすという事になる。殺すの反対は人を生かすという事。ね。心で殺すのは重い罪じゃと仰っておられますけれども、なら心で生かす事はこれは神様が大変お喜び下さり、いうならばお褒めのお言葉の一つも下さろうわけです。そうなんですね、その裏、その反対はそうでしょうが。ね。その心で殺すのが重い罪じゃと。それが神の機感にかなわぬとこう仰る。ね。なら心で救うとか心で助けるという事になるとそれが神の機感にかなうという事になる。ね。良い事悪い事全て神様のお見通しなのですから、ね。私共は勿論信心させて頂いておって人を、例えば心でこなしたり心でいじめたり、ね、心で相手を傷つけたり心で殺すような事があっては、えー、勿論なりませんし。だからそういう事ではなくて、本当に自分の心一つで生かそう生かそうと、相手を生かそう相手を生かそうというそういう心がけがね、えー、大事だという事をですこの七十五節から感じます。
 私は信心の有り難さというか信心の妙というのはね、目に見えない所、ね。いうなら、あー、誰にも気付かれない所。そこを私は大事にしていく楽しみと思うですね、信心とは。ですからそういう楽しみがね、出来てこなければ信心は本当な事じゃないですねぇ。金光様の御信心とは言えません、ね。心で助ける、ね。心で生かすという。人が見ておるとか聞いておるとかというんではなくてです、そういう影の影の所をね、大事にしていくという事が有り難いと。または楽しいと。そういうね、信心にならせて頂かなきゃいけない。またそれが信心の楽しみなんです。ね。
 んー、教祖様の御時代に、才崎という所、才崎教会っていう教会ですね、今でもあります。才崎という所に片岡次郎四郎という先生がおられました。まぁ大変なお徳を受けられた先生です。えー、御神格が金光大神を受けられ、才崎の金光大神と言われる程しの御神徳を受けられたお方です。ね。その方が、えー、ある時教祖の元にお参りをされた時に、生神金光大神、んー、が才崎の金光大神に言うておられる事はね、此の方は今日からね、百日間の最後の修行に入ると仰せられた。「神様の仰せで金光大神今日から百日の修行に入る。これで此の方の一切の修行が成就する、成就するのじゃ。そのもとも才崎にありて修行せよ。なお言い残したき事多くあるから、なるだけ度々参って来いと仰せられ、帰りて日々謹みて修行し、今日も一日すんだ今日も一日すんだと、遂に百日目に居室に、の柱にもたれ、いよいよ今日で百日の修行も成就した有難うございますと心中お礼を申し上げ頭の後ろに、頭を後にそらした途端に金光大神神上がりと自ら口をついて出た。驚き神前に出てお伺いし、居しところ今日は参らんでも良い、奧城で会おうと仰せられ、十四日に参りたる奧城の、ん、泥なお入れていたるを、ただ今遅れながら参りましたと申し上げるとお土が、がく、ぐぐっと動きたる様に思わるる。百日修行の内容について教祖様も爺のも明らかではない」才崎の金光大神のお孫に当たらる方がここは言っておられるわけですね。爺というのは才崎の金光大神の事を言っておられる。「爺も修行は形の上の事は何も改まった事はなかったようである。教祖は・・・」あー、ま、ここん所まででいいですね。別に改まった、これと人に見える様な形の上の行ではなかったという事を言っておられます。教祖金光大神の百日修行というのも、おー、御神勤はなされながらの御修行であったですから、やはり心行でおありになった様に思うと書いてありますね。
 どういう所に例えば生神金光大神がですね、いわゆる最後の最後までそういう御修行をなさったか。ね。生神金光大神の修行がそれで成就した。ね。時にはすでに、生神金光大神神上がりという日であったという事です。その事をお弟子に当たられる才崎の片岡次郎先生にも、その事をその方も一緒に修行せよと言うておられる。才崎もまたその事を今日一日終わった、今日もまた一日終わったと、その修行を楽しんで百日間続き終わられたその時に、ね、はぁ今日で百日の修行が終わったと思われたら金光大神神上がりというお知らせを頂いたと、ね。そう御神前に出てお伺いをされると今日はこいでも良い。奧城で会おうと仰せられた。明けて十四日に、え、進んで十四日に、十日にお国替えになっておられますかね。おいでられますとまぁだこうお土が濡れておった。拝されるとそのお土がぐらぐらっと動くようにあったと(笑)。何の為に私は誰も知らない修行とかね、心の中での知らない修行。はぁうちの先生はああいう修行をして下さってあるからというのではなくてね、もう信者も誰も知らん、只ご存知なのは神様だけ。金光大神だけ。その修行をなさっていくという事にです、もうそれこそこの上もない信心の喜びを感じておられた事がそういうお二方のね、金光大神、生神金光大神のお二方の御修行の中から感じる事が出来ますね。
 ですから私共がですね、ね、心で助けるという事はね、はぁあの人を助けたい助けたいと思う事だけではないという事が、では駄目なのです。本当にそれが助かる働きにならなければ。ね。それは自分が行って撫でたりさすったりしてあげるといった様な事ではなくてです、ね、心で助けるという事はね、心で修行するという事だと思うです。はぁそげな心で傷付けるとか心で殺すという事はそんなに重い罪なら、それとは反対の事ならこれは神様が喜んでくださる事、神様の機感にかなう事。ならいっちょ心で助ける事をいっちょ今日から始めようと言うてです、心で人が助かる様に助かる様にと言うて言うたり思うたりしただけではいけない事が分かります、ね。それも有り難い事ですよね。今まで俺が言う事ばっかり言うたり思うたり、それこそ人の、心で傷付けたり殺したりしておった者がです、改まって今日からは反対に心で助けようという様な心になる事は有り難いけれども、しかしそれだけでは助からない。ね。ですからいわゆる心で助けるという事はね、私はその心での修行がなされてからでなからなければ助かる働きになってこないと思うですね。
 私はもう必ず御取次をさせて頂く時に様々などんな色んなありますね。家庭のもういろんな人間関係なんかの場合があります。まぁ子供が勉強しません。子供が言う事を聞きません。という時には私は必ず申します事は、決して勉強せい勉強せいっち言いなさんな。と私は言うんですよ。子供が言う事を聞かんというてもね、決して言う事を聞かんというて、いわばお説教がましい事を言いなさんなと私は申します。ね。いや言うただけおかげにならんよ。という事はどういう事だろうか。そんなら言わんちゅうて辛抱しとるだけではおかげにならんのです。ね。言わ、たまには言わにゃあおられんような事もあるけれどもね、そこをね、じっと辛抱するだけでもいけんのです。本当にそこに目に余るようなものを見たり聞いたりする時にです、その子供の為に私は祈ってやる修行してやる、心で。ね。だからなるほどいわんな、ね、おかげを頂く。本当に言わんね、勉強するようになれとは言わんでも、子供が言う事聞く以上の言う事を聞く様になった。親の思い親の願い以上に動いてくれるようになったというおかげが現れてくるとですよ。これは私自身がそれを体験しておるからです。私はそれを皆さんに言うんです。ね。これは私と子供というだけの事じゃあ決してありません。もう一切そう、ね。だから言わんという事がこのように素晴らしい事だという事はね、何故かと言うと言わず、言わずに祈る、言わずに修行をする。だからそこに例えば子供なら子供が助かる道、いわゆる子供がそこに勉強するようになったり言う事を、それこそ言う事を聞く以上の言う事を聞くようになってくるです。ね。ですからその辺の所が私は有り難いと分からせて頂く信心。ね。
 いつだったですか、もう四、五年になられましょうか。あー、高橋さんが、えー、お店の沢山しておられてね、使用人がおりますから。やっぱ目に余る事があるんです。だからお説教の一つもしたいところがあるわけです。そんな事をお届けされた時にですね、頂いた御教えの中に、いー、「お金で人を使うな。ね。言葉で使うな。心で使え」という様な御理解を頂いた事があります。ね。そんなら心で使うってはぁ心であれがあげんしてくれりゃ良いがこうしてくれりゃ良いがっちゅうとじゃないです、心で使うちゅう事は。ね。心で使うという事をね、私は口で言うたりお金で使うたりそれはね、人を使い上手という事があります。そりゃあもうなかなか褒めたり、ね。おだてたり。またはそのー、時々の賞与出したり。なるほど人間は、あー、褒めらりゃ良い気色になってです動きもします。時々は余分なお金でも給料以外で貰うたら、はぁ家の大将は分かっとると言うてします。ところが褒めなくなったらどうなります。お金を与えなかったらどうなります。もうそれぎりでしょうが。お金を与えなくても、ね。言葉ではいわば褒めなくても、ね。それこそそこの大将の思う通り以上に例えば使用人の方達が立ち働く程しのおかげを頂くという事は、心で使わなければいけんのです。
 なら心で使えとという事はどういう事かと言うと、なら今言うように、ね。私はそこの主人がその店員とか従業員の為にです、心で修行する事だと思うです。ね。例えば言いたい時それを言わずに全部それを修行する。ところがその例えばこういう事ではこの人も立ち行かんと思う事をです、神様に詫びてあげたりまた自分が修行させて頂いたりしていくという事がね、心で使う事。そこにですね、とても言葉やらお金やらで使う段の事ではない程しのおかげ。それこそ見ておろうが見ておるまいが立ち働いておってくれるおかげを受けられるのです。自分が見て周らなければ監督して周らなければ人夫が動かんてんなんて馬鹿んごたる話ばいと私はある人に言うた事があった。そげんせにゃ働かんちゅう。だからずーっと現場ば周ってから見て周る。本当違う。ね。なるほどそりゃ普通から言や違うだろう。そんかわりもう、なら、もう大将が向こう向いたらもう油売りよる。そう人間の目っていうものが何処に向くか目を配っとるわけにはいかんのですからね。例えばこれがあー、請け負い業かなんかってというならば、久留米にしよりゃ日田の方にもしよるちゅう様な事がありましょう。はぁー久留米と日田の間ば自動車で行ったり来たりせにゃならん。そして久留米ば来た時にはもう油売りよる。日田の方に行く時にはもう久留米の者が油売りよる。それではいけないでしょう。ね。それは普通で言えばそれが本当ですけれども信心でいうたらそういう事ではいつまでたってもおかげは頂かれません。ね。
 私は心で使えるいわば信心。ね。それはどういう事かと言うと心で助ける信心。金で使うたり言葉で使うたりするとです、ね。言葉を、いわばおだてたりして使うという事はです、なるほどそれは良かろう事あるし、少しはお金でもよけいやるとよう働く。なるほどそりゃよくやった位のこっちゃない、収入も上がりましょうけれどもね、それでは信心の向上はないですね。そういう時にです、私はその例えば怠ける、うーその、小僧がおったり怠ける例えば人夫がおったりするならです、その氏子の為にです、その人間の為に祈ってやる信心。修行してやる信心。ね。それが例えば目には見えない所でもです、それこそ主人の手になり足になりして働く程しのおかげを下さる。神様の働きを分からせてもらう所に信心の喜び信心の楽しみ、いよいよ確信を持っての、おー、信心生活が出来上がってくる。ね。心で使うという事はね、いわゆるそういう事だとこう思う。それは心で助けるという事だと思うです。ね。
 その心で助けるという事がです、ね。それこそ神様だけしかご承知じゃない、金光大神だけしかご承知じゃないでもです、その例えば百日間の修行をね、生神金光大神と才崎の金光大神がなさっておられる様に、自分の事の為ではない、世の中の難儀の氏子が本当に完全に助かる事の為の、いわゆる完璧の修行を最後の最後になさっておられるという事。ね。いわゆる最後の修行として修行の仕上げをそのようにしてなさっておられる。それは人が助かる事の為なのです。そういう例えば修行をなさっておられる心の中で、誰も知らないけれどそういう修行をしておるその、おー、働きがですね、神様がご覧になってね、「人を殺すというが心で殺すのは重い罪じゃ」と仰るその反対の事がある。ね。心で人を心で助けるという事がです、どの位例えば神様がお喜び下さる事かと。その喜びがです、重い罪の反対にね、尊いいうならば御褒美を下さるそれを私は御神徳だと思うです。ね。神様のいわゆるいよいよ御信用というかね御神徳がつくという事はそういう事だと私は思います。私共がね、一つ本気で人を、を、心で助けれる働き。心で傷ついておる人を癒してあげれる働き。それは心で思うておるとか願っておるというだけではなくてです、ね。その為に私共が修行をする、ね。そこからいわば頂けてくる所の心が和賀心なのです。ね。人が助かる事の為に人が助かる事の為にと心で繰り返し念ずる。ね。その為のその為の修行がです、ね。誰も知らん中に日々心の中でなされておる。いわゆる心行という事。「表行よりは心行をせよ」と仰るその心行がなされていく。それを神様が見逃し給うはずがない。神様のその喜びが私共に返って来る。その事が私は和賀心だと。ね。和賀心というのは、自分が頂きたい頂きたいと思うて頂けれるものではなくて、そうした神様がお喜び頂けれる。いうなら心で人を助けれるという程しの信心が、修行が出来るそういう心。それを明けても暮れても思い続ける。人が助かる事の為に。為に私が修行を致しますという様なね、そういう生き方です。ね。そこから私は和賀心が頂けてくる。
 昨日まぁ敬親会の方達にお話した事なんですけどもね、はぁここで先生のお話を頂いとるとこんな有り難かばってから、ね、家に帰るとですのや、もうすぐこれが消えてしまうけんでと言うておばあちゃん達が言われるんです。本当に涙を流して皆さんがお話聞いて下さる。ね。だからその有り難いとをですね、あの、持続し、持って、持って帰らなければいけない。ところが家に帰る頃になるともういわば嫁子の足元やらがね、嫁子ではなくて見えるようになるって言う。それでね、そういう有り難い心をね、持ち続けよう持ち続けようと思うたって駄目だ。そういう努力では。それこそ何かの調子にちゃっともうそれが変わってしまってる。だからその事はその事のまま置いといてですね、心の中に今日私が今言っておりますね、人が助かる事の為に、ね、誰も知らん。人が助かる為に心で祈る。心で修行をするというようなです、その事を思い続ける事によって、お広前で頂いた喜びを消さんですむおかげが受けられますよと言うて話した事です。ね。
 人が助かる事の為に、ね。心で助けられる。ね。その為に心で修行をする、ね。そういう修行を神様がご覧になっておられる、神様がお喜び下さる、その神様の喜びがこちらに照り返って来る。それが心の中にいつも和賀心を頂き続けていく、信心の喜びを頂き続けていけれるいわばコツのようなもんだ。だから人が助かる事ばーっかり一生懸命心の中に思い、その為に自分は修行しようというような生き方こそがです、私は本当の信心だという風に思うのです。ね。我が助かる事ばーっかり明けても暮れても思いよるといった様な事でね、助かるはずがないです、本当な意味においての。ね。
 どうぞ七十五節を今日は例えばね、えー、人を殺すという事が重い罪という事であればです、ね、人を助けるという事はそれの反対の事になるのだと分からせて頂いて、心で本当に人を助けよう。もうそれこそ夢で心で人を傷つけるようなですね、心でこなすようなですね、私は心の振る舞いがあってはもーう本当にさらさらいけないと思うです、信心させて頂いておる者が。ね。あれがあん奴がと、例えば心で思うような時にはね、もう相手を傷つけたり殺したりしておる時です。ね。ですからそれの反対な事。裏があれば表が必ずある。この御教えも例えばここを表とするならば、ね、その裏の所を今日は皆さんに聞いて頂いたわけですね、どうぞ。